坂口安吾・作『白痴』
〈あらすじ〉
第二次大戦中、敗戦の気配の強まる日本。
大学を卒業して新聞記者に、次いで映画の演出家になった伊沢は、場末の小工場とアパートに囲まれた商店街で小屋を借りていた。その近所には父親のわからぬ子を孕む女や、兄妹で夫婦の契りを結んでいる者やら、妾や淫売やらが住んでいた。
伊沢の隣人は気違いで、資産家だった。気違いは30前後で、正気の部類だがヒステリーな母親と、25~26歳の白痴の妻があった。この夫婦ははたから見れば単なる美男美女の夫婦だった。
ある冬の晩、伊沢が帰宅すると、白痴の女房が蒲団の横に隠れていた。女房はなにかぶつぶつ言うが、要領を得ない。伊沢は彼女を泊めてやることにした。夜中、白痴の女房は蒲団から飛び起きた。寒い冬の夜の為、伊沢は女を蒲団へ引き戻す。けれど女はしばらくするとやはり飛び起きてしまう。伊沢は腹を立てたが、女「私はあなたに嫌われている」と言う。女は伊沢の愛情を信じて逃げ込んできたが、伊沢が手を出さないので嫌われていると解釈したのだった。伊沢は人間の愛情表現は決して肉体だけのものではないと彼女をなだめ、眠りにつく。
そのまま伊沢は白痴の女と同居を始める。白痴の女は昼間外に出ないため、その同居は誰にも知られずに続けられた。
そして4月15日、伊沢たちの住む街にも空襲がやってくる。白痴の女を見られたくない伊沢は、少し遅れて女と二人避難を始める。伊沢は女に「死ぬときは二人一緒だから離れないように」と言い、女はうなずく。
二人は小川を超えて、麦畑にたどり着く。休憩していると、白痴の女は眠くなったと言い、伊沢は彼女を眠らせる。伊沢が何本かたばこを吸っているうちに空襲警報が解除される。豚のようないびきを立ててまだ眠っている女を見て、伊沢はこの女を捨てていきたいと思う。
夜が明けたら、女を起こしてなるべく遠い停車場を目指そうと伊沢は決めるのだった。
戦後の人々に生きる糧を与えた……らしい?
本日ご紹介するのは坂口安吾・作『白痴』。
正直に言います。私、この作品わかりません!!!!(威張るな)
小見出しの内容は、私の愛用する『新総合図説国語』(東京書籍)(久しぶりの登場! 高校時代の参考書だよ!)には「戦後のすさんだ人々の心に生きる糧を与えた坂口安吾の代表作」とあります。戦後に発表され、「戦後の虚脱状態にあった日本人に衝撃を与え」ともあります。
ですが、うーん。わからない。色んな意味でわからない。正直面白いのかどうかもわかりません(ぶっちゃけすぎ?)。日本人に与えた衝撃の理由も。
じゃあなんで紹介するのかって坂口安吾の代表作だからです(身も蓋もない)。あとは、世間に評価されているからといって面白いと思わなくてはいけないこともない、という意味も込めて取り上げました。もちろん好みはあってしかるべきですから、文豪の代表作だからって面白いと思えなくてもなんの問題もありません。
とある俳優さんが言っていました。「勉強のために無理やり見たものは残らない」と。人によって違うでしょうが、なるほど一理あるなと思ったものです。それでいうと、今回の私はその俳優さんの言葉に背くものかもしれません。ぶっちゃけ「わかんないなー」と思いながら無理やり読んだので。
たしかに残らないかもしれません。感動も感心もさほどないままなら、一月後にはあらすじも忘れているかもしれません。いや、これでも人生の中で何回か読んだんですよ? ただクリエイター(志望)として、その理由を一度は考えたいのです。なぜ自分にとって面白くないのか、どこがわからないのか。
文学研究とは、その時代の感覚で物語を読み解くことにあります。「戦後の虚脱状態」が実感できない世代としては、多少しかたのないことなのかもしれません。「わからない」のは「知らないから」という可能性も考えられます。第二次大戦といえば小学校でも中学校でも習いますし、日本の学校で避けて通れないことです。でも実感としてどれほど理解できているでしょうか。
改めて想像するだけでも違うのかもしません。我々現代の人間は、日本が敗戦する戦争であることを知っています。当然の結果と思う人も多いでしょう。けれど当時の日本にとってはそうではなかった。国を挙げての総力戦。我慢に我慢を強いられた生活の果てに、結局は負けてしまった。確かに、虚脱感はわかる気がしてきます。
そんな日本で発表された今作がどのように人々に希望を与えたのかは、正直まだわかりません。ほかのレビューやら論文やら読んでみたい気もするのですが、だってコロナ自粛中なので……ごにょごにょ。皆さんも一度でもいいので考えてみてくれると嬉しいです。って、もしかしたら私と違って楽しめる&理解できるかもしれないので、是非どうぞ。
消極的なようで前向きなのかもしれない
私がひとつだけ賞賛できるとしたら、伊沢が生きることを諦めていないことでしょうか。
正直情けない男に見えます。家を出れば白痴の女を忘れる。女が欲しい(伊沢は同居している間に彼女と関係も持ちます)。空襲が迫っていても、彼女と一緒のところを見られたくない気持ちが勝つ。そのくせ「僕から離れてはいけないよ」などと優しい言葉をかける。そしていびきをかいて眠る女を「豚のようだ」だなんてふざけてます。
ですが伊沢は、空襲時においても結構冷静です。冷静に逃げる道を考え、白痴の女を決して見捨てません。それは同居している間もそうです。不法侵入されているのでから追い出したって良かったはずです。女が欲しかったというあんまり理解したくない理由故だったとしても。人妻やでー。
そして「豚のようだ」という感想に「ふざけろ」とちょっとイラっとしてしまったのですが、「捨てたくなった」ともありますし。けれど伊沢は女を捨てるつもりはなく、その後の行動も白痴の女と共にする前提のようなのです。これだけには感心できました。 嫌なことからは逃げ出したい。面倒なことは捨ててしまいたい。人間として当然の感情です。敗戦色が濃厚な日本では、やる気もどこから出していいのかわからなかったかもしれません。その中で、伊沢はおそらく常に次のことを考えている。もしかして、戦後の人々の糧になったのは伊沢が考え続ける「次」なのでしょうか。途方に暮れていても、我ら日本人は生きている。次があるのだ。生活は続いていくのだと。
伊沢たちが住んでいた街の様子は、はっきり言って場末感がすごいです。誰もかれも獣とまでは言いませんが、文化的というにはいろいろ足りない気がします。それは到底、明るい未来を想像できるものではありません。その街から白痴の女を連れて生きていく。困難がないはずがありません。けれど続いていく。それは戦後の日本の状況と、確かに重なったのかもしれません。ああ、少しだけ、この作品の意味がわかるような気がしてきました。 もちろん、この解釈は間違っているかもしれません。コロナ自粛中ですから(2回目)、調べられません。ですがいつか日常が戻ったら調べてみようと思うくらいには、興味がわいてきました。あなたはどうでしょうか。ネガティブレビューを書いた自覚はありますが、少しでも『白痴』に興味を持っていただけると嬉しいです。

【執筆者紹介】粟江都萌子(あわえともこ)
2018年 榎本事務所に入社。
短期大学では国文学を学び、資料の検索・考証などを得意とする。
入社以前の2016年に弊社刊行の『ライトノベルのための日本文学で学ぶ創作術』(秀和システム)の編集・執筆に協力。