『人間失格』―「人間」に合格するものなのか

粟江都萌子のクリエイター志望者に送るやさしい文学案内

太宰治・作『人間失格』

〈あらすじ〉
 「私」はとある男の手記を読む。
 手記の筆者・大庭葉蔵は幼いころから人間の生活がわからず、「道化」のフリを身に着ける。葉蔵は幼いころから屋敷の女中などに犯されていた。
 成長し、東京の学校に通い始めた葉蔵は、名前も確かに思い出せないような女性と情死事件を起こす。女性だけが死に、葉蔵は生き延びた。
 この事件をきっかけに実家から勘当され、実家の援助を受けられなくなる。葉蔵は画家になろうとするも、漫画などを描きながら日銭を稼ぐ。
 未亡人の編集者と同棲したりもしたが、そのうち無垢なヨシ子と出会い、結婚する。だがヨシ子が強姦されるという事件が起こる。無垢なヨシ子が無垢ゆえに事件に遭ったということに打ちひしがれ、ヨシ子ことの関係がぎくしゃくする。
 葉蔵は酒に逃げ、アルコール中毒になる。薬屋の奥さんと出会う。奥さんは葉蔵に酒をやめるように言い、どうしても飲みたくなったときに使うものとしてモルヒネを葉蔵に渡す。
 葉蔵は酒を断つことはできたが、今度は薬物中毒になっていく。
 もうやめなくてはと、葉蔵は遂に実家に連絡を取る。そうして精神病院に入れられた葉蔵は、狂人や廃人として扱われ、人間失格となる。
 葉蔵と付き合いのあったバーのマダムは、「私」に葉蔵を「天使のようないい子でした」と回想する。

「人間失格」ってどゆこと

 太宰治・作『人間失格』。これもあまりに有名で、何度もメディアミックスされている作品です。タイトルを耳にしたことがあるという方がほとんどでしょう。それに「人間」も「失格」も日常的に使う言葉なので、すんなり入ってくると思います。
 ですがはたと立ち止まって考えてみると、「人間失格ってつまりどういうこと?」と疑問に思いませんか? だって対義語を作るなら「人間合格」。「人間」という資格があるわけでなし、人間は人間という生き物じゃないのかと。
 でも考えてみると、人間以外にも、資格じゃないのに「○○失格」って実は結構使いますよね。「父親失格」とか「飼い主失格」とか。あ、後者は資格(許可)が要る場合もあるでしょうか。
 あとは資格を失ったわけではないけれど「教師失格」「医師失格」なんて使い方をするシーンもエンタメ作品には登場しますよね。つまりは「○○」という自分の立場や責任にその人物が見合っていない行動や考えをしている、またはそういう状況であるということでしょう。ということは「人間失格」とは「人間」に見合っていない状態にあるということになるでしょう。
 それまでもダメ人間の極みのような生活を送っていた葉蔵ですが、それでもまだ人間でした。精神病院に入れられたことで狂人ということになりました。静養はするし手厚い看護も受けたでしょう。けれど狂人は人間とはいえず、「人間失格」となるのです。

最初から人間失格だったのか?

 精神病院に入れられた葉蔵は「自分は狂っていない。けれど狂人は皆そう言うのかもしれない」とやけに冷静に、自分を人間失格だと言います。病院に入って初めて人間失格になったような書き方をしているのです。
 ですが、葉蔵は最初から人間失格の業を背負わされているようにも思えます。それは葉蔵自身の罪や業というより、周囲に背負わされたものです。
 幼い葉蔵は、女中に犯された経験があります。「犯された」とさらりと書かれていて、何かの比喩表現かとも疑いました、けれどやはり、女中から性的虐待を受けていたものと思われます。
 こうした虐待や強姦は、その人の尊厳を踏みにじるものにほかなりません。そもそも人間扱いされていなかったのです。周囲に対して道化を演じていたのも周囲の為であり葉蔵自身のためとはいいがたい気がします。それはつまり、自分という人間を殺しながら生きてきたのではないかと思うのです。悲しいことに葉蔵は幼いころから葉蔵の罪ではなく、人間失格の業を背負わされてしまったといえるのではないでしょうか。
 成長した後のことは自己責任です。葉蔵は分別がつかないほどの無知ではなかったはずですから。とはいえそれを振り切る強さがなかった。それが彼を「人間失格」の業から解放されるのを阻んだのではないでしょうか。
 あくまで個人の感想ですが、私は葉蔵に少なからず同情しました。

なぜヨシ子を助けなかったのか

 葉蔵はヨシ子が強姦される一部始終を見ていました。ヨシ子が犯されている現場を見て「二匹の動物」と表現した時は、それは不倫の関係なのかと私は思いました。けれど葉蔵はそうは思っていない。なのに助けなかったのです。この理由は、私にもよくわかりません。
 葉蔵はむしろ、犯人の男とヨシ子との間に少しでも恋のような感情があったなら自分の気持ちも助かったかもしれないと思います。けれどそうではなく、ヨシ子は無垢であるがゆえに人を疑うことを知らず、そのために男につけいられてしまった。そして夫である葉蔵への申し訳なさを抱いたままおどおどと生きていくことになり、葉蔵はそのことを嘆くのです。
 以前『斜陽』を取り上げた際、太宰治の女性に対する尊敬について書きました。私はここでもそれを感じています。
 葉蔵は自分とヨシ子と同じような境遇の物語を探して読みます。それらは夫が妻をどう許すかに主眼が置かれており、それは葉蔵にとって助けにはなりませんでした。葉蔵にとって「許す」「許さない」という問題ではなかったのです。
 大体、妻だって被害者なのに、そこに「許す」とか「許さない」とかいう場違いな価値観が出てくるのが、私はおかしいと思います。私が女性なので余計でしょう。けれどそういう時代だったということもまた事実です。
 そんな時代にあっても、葉蔵にとってその事件は「許す」とかそういうものではなかったのです。そこに、太宰の女性を大切に思う気持ちが表れている気がしました。ですがそれゆえに葉蔵が苦しんだのも事実でしょう。悲しい物語です。  ラスト、バーのマダムは葉蔵を「いい子でした」と回想します。情死事件を起こし、女性のヒモになり、アル中とヤク中になり、最後は廃人になってしまった葉蔵です。ダメ人間街道を転がり落ちていったような人です。けれど周囲や女性たちに対する愛情があったからこそ、そうして廃人になってしまったようにも思います。そう思うと、マダムのセリフもわかるような気がするのです。

【執筆者紹介】粟江都萌子(あわえともこ)
2018年 榎本事務所に入社。
短期大学では国文学を学び、資料の検索・考証などを得意とする。
入社以前の2016年に弊社刊行の『ライトノベルのための日本文学で学ぶ創作術』(秀和システム)の編集・執筆に協力。

↑こちらから同じカテゴリーの記事一覧をご覧いただけます
タイトルとURLをコピーしました