『たけくらべ』―恋と呼ぶべきものなのか

粟江都萌子のクリエイター志望者に送るやさしい文学案内

樋口一葉・作『たけくらべ』

〈あらすじ〉
 明治時代、吉原の子供たちは、長吉を中心とした横町組と、正太郎を中心とした表町組に分かれ対立していた。
 花魁を姉に持つ美登利は表町組、龍華寺の子である信如は横町組であった。二人は同じ学校に通っていたが、あるとき美登利が信如にハンカチを貸した。するとその様子を級友にからかわれてしまい、内気な信如はそれに耐えられず美登利を避けるようになってしまった。美登利もそんな信如を意地悪と思っていた。
 吉原の祭りのとき、筆屋に集まった美登利たち表町組と、正太郎を狙った長吉たち横町組が乱闘騒ぎを起こす。長吉の投げた草履が美登利の額に当たってしまう。美登利はこの上ない屈辱を覚える。長吉は「自分たちには信如がついている」と言う。
 ある雨の日、信如は出かける途中で下駄の鼻緒を切ってしまう。それは美登利の住む大黒屋の軒先だった。鼻緒を切った人がいると美登利が気づき、端切れを渡そうと出てくるが、相手が信如だと気づいて顔を赤くする。信如も美登利が出てきたことに気づくが、気づかぬふりをする。
 ある日、美登利は島田髷を結って出かける。なぜだかそれを美登利は嫌がり、それ以来外に出て遊ばなくなってしまった。ある朝、門のところに水仙の造花が差し入れられていた。それは信如が僧侶になるための学校に入った日だった。

日本版ロミジュリ?

 敵対するグループの子供たちの初恋。樋口一葉・作『たけくらべ』は往々にしてそう説明されます。設定だけなら日本版『ロミオとジュリエット』みたい? でもいがみ合っているのは家同志ではなく子供たちの派閥なので、どちらかというと『ウエストサイドストーリー』の方が近いでしょうか。(気になった方はぜひ観てみてね!)
 タイトルである『たけくらべ』の「たけ」とは「丈」。つまり身長のことです。「なんか覚えがあるなあ『伊勢物語』あたりで」と、思っていましたら。どうやらまさしくそれがタイトルのもととなったようで。『伊勢物語』には男が幼馴染の女性に「かつて井戸の淵で背比べをしたけれども、あなたに会わないうちに背が伸びました」という求婚の和歌を贈るエピソードがあるのです。『伊勢物語』もいつか取り上げたいなあと思っていますので、詳しくはそちらでお話できたらいいなあ(予定は未定)。

恋と呼ぶには幼すぎる

 先に述べたように、『たけくらべ』は美登利と信如の幼い恋の物語とされています。『たけくらべ』を紹介する文章を見ると「惹かれあっているのは明らかなのに互いに素直になれない」などという文言も見受けられます。
 が、私は正直これを恋と呼ぶべきか決めあぐねています。恋の前段階と呼べるのかどうかも、正直怪しく思っているのです。
 小学生のころ、なんでもないちょっとした接触を、それがたまたま男女だからという理由で冷かして騒ぎ立てることというのは結構あったような気がします。ちょっと物を貸したとか親切にしただけで「〇〇のこと好きなんだろ!」みたいな。それでムキになって言い返したりも泣かされたりもしたのですが、大人になって思うと超思考ですよね。『たけくらべ』の美登利と信如の発端もまさにそう。ハンカチくらいフツーに貸すっちゅーねん。
 それをからかわれて意固地になる信如の気持ちもわかるし、悪いことをしていないのに信如に冷たくされて「意地悪」と感じる美登利の気持ちもわかる。それが恋かどうかは……断定されてしまうと、首をかしげてしまいます(あくまで個人の感想です)。
 とはいえ、冷かされた一件で、恋にしろそうでないにしろ、互いが特別な位置づけとなったことには同意できます。どうでもいい人間を避けたり、腹を立てたりはしませんから。あるいは冷かされた者同士の、ある種の絆のようなものはあるのかもしれません。
 もちろん個人の感想ですので異論は認めます。あなたは美登利と信如にどんな関係性を期待するでしょうか。
 余談ですが、鼻緒の切れた信如に美登利が端切れを投げつけるシーンなどは、最初にハンカチを貸そうとしたときのことが思い出されて大変ぐっときました。それを信如が拾わないところに、彼の幼さを見る気がします。「エモい」って最近よく聞きますが、こういうことをいうのかしら。

乙女の秘密は秘密のまま

 美登利が態度を一変させ、子どもたちと遊ばなくなった理由は作中では明かされません。それどころか、この秘密に関しては文学者たちの議論の的となっていて、答えは出ていないようなのです。
 理由として考えられる意見は、

①初潮を迎えた
②初見世

というものが多いようです。
 私も女性の端くれなのでわかりますが、初めて生理が来るというのは自分が女性であることを強く意識させられます。おっぱいが膨らむこともそうですが、体の中が大人の女性に変わるということを実感するのは、やはり大きい気がします。ですが美登利は遊郭育ち。お金の使い方も子供とは思えない豪気さがあり、普通の少女とは一味もふた味も違っています。そんな美登利が初潮くらいで友達と会わなくなるほど変わってしまうだろうか? という否定的な意見もある模様。
 その次の初見世説ですが、初見世とはつまり遊女として初めてお客を取ることです。当時の制度や年齢的に、これも疑問視する声は多いようです。でも確かにありそうな気がする。
 先に述べたように、美登利はとても活発で強い少女です。その美登利が外にも出なくなるような転機とは、やはり相当のものだと推察されます。舞台も吉原ですし、年齢的にも「性」にまつわるものが大きく関係しているのではと思います。果たしてそれはなんなのか。
 「生理くらいで」という意見も見ましたが、いや自分の体から怪我もしてないのに出血するって最初は結構なことですよ? 生理痛やらホルモンの影響でのイライラやらもありますしね。男性諸君、女性は大変なのですよ。
 と言いつつも、吉原育ちで姉は遊女、「性」に近い環境で育った美登利にそれほど影響を与えられるかというとそれもやはり自信がなく。じゃあ初見世かというとうーん……。もちろんほかの理由である可能性だってあるわけです。
 あなたはどんな理由だと思いますか?

児童書が案外オススメです!

 ぶっちゃけ原文は読みづらいです。嗚呼、また原作ディスと疑われそうですが、違うんです(連載始まってから何回目の「違うんです」だろうね……)。『たけくらべ』に限らず、樋口一葉作品は現代文と呼ぶには少々言葉が古い。そのため、現代の我々が読むには正直「すんなりと」とはいかないのです。「学生時代、古文得意だったよ!」というならいざ知らず(おい、国文学科出身)。
 そのため一葉作品は現代文のくくりでありながら、現代訳も多く出版されています。今回私もいくつかお世話になったのですが、その中で驚きだったのが児童書です。
 その本との出会いは、ある日友達と立ち寄った書店。友人がふらりと児童書コーナーへ足を踏み入れました。友人に付き合う形で見て回り、「この絵本なつかしー! 家にあった!」なんて話しながら遠い十代に、なんなら年齢一桁時代に思いをはせているとき、講談社の『少年少女文学館』シリーズに出逢ったのです。
 おそらく小学校高学年以上が対象であろうと思います。現代訳の言葉は簡単すぎず、ですがわきにかみ砕いた言葉も併記されている。装丁や併記された語を除けば、大人向けのものとなんら変わりない現代訳でしょう。
 また『たけくらべ』で厄介なのは(厄介とか言うな)明治時代や吉原における専門用語がたびたび飛び出してくるところです。現代の私たちにはなじみのない言葉や道具、習慣が登場するのですが、ページの余白にそれらが結構丁寧に解説されているのです。あらすじに書いている「島田髷」は女性の髪形のひとつなのですが、これなんてイラストつきです。大人向けの書籍でも注釈は載っているでしょうが、巻末にまとめられていることが多い。そういうものは正直ページを行ったり来たりするのがめんど……ごほごほ。読みながら少し視線を横にずらすだけでわかりやすい解説が読めますし、注釈のページを見失うこともありません。読書のペースをさほど乱すことなく読み進められるのです。
 児童書、なかなか侮れんな……と、同行の友人そっちのけで感動してしまったのでした。すまん、友よ。でも君がいなかったら児童書コーナーには行かなかっただろうからか、とても感謝しています(とってつけたようですが本心だよ!)。
 いやもう、『源氏物語』とか『平家物語』とか『方丈記』とかとかエトセトラ! 押さえておきたい有名どころが揃ってて、とにかく買い占めそうになりましたよね。その日は休日。楽しそうに本を選ぶ子供たちを見ると、彼らがこの作品たちに出逢う機会を奪ってはいけない気がしてさすがに辞めましたけれども。でも、うん。いつかやりそうな気がする。お財布がOKって言うなら!(本音はそっちか?) 私がそのとき購入したのは前述の講談社のものでしたが、もちろんほかの出版社様からもいろんな形で出版されています。児童書を子供の読むものと決めつけず(買い揃えそうなアラサーもいることですし)、ぜひ自分に合うものを探す選択肢のひとつにしていただければと思います。

【執筆者紹介】粟江都萌子(あわえともこ)
2018年 榎本事務所に入社。
短期大学では国文学を学び、資料の検索・考証などを得意とする。
入社以前の2016年に弊社刊行の『ライトノベルのための日本文学で学ぶ創作術』(秀和システム)の編集・執筆に協力。

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