『蒲団』―女の処女性とはかくも重要なものなのか

粟江都萌子のクリエイター志望者に送るやさしい文学案内

田山花袋・作『蒲団』

〈あらすじ〉
 東京で作家をしている竹中時雄には妻と三人の子があったが、時雄はこの生活について鬱屈とした思いを抱えていた。通勤途中に出会う美女との恋を空想するような日々の中、横山芳子という女学生を弟子に取ることになる。時雄はこの芳子に愛情を感じ、芳子も同じであると信じていたが、自分が彼女にとって師であり所帯持ちであるがために恋に踏み出すことはなかった。しかしあるとき、芳子が田中秀夫という恋人を得る。二人は誓って神聖な関係であると主張していたが、やがて肉体関係があったことが発覚し、芳子は故郷に帰らされる。芳子がいなくなった部屋で時雄は芳子の蒲団を引き出し、汚れのついた夜着に顔を埋め、その匂いを嗅いで涙する。

ネタバレ案件ですが、もういちいち断りません

 これまでにも何度か「ネタバレビューは恐れるに足らず」と豪語し、結末までがっつりネタバレしたあらすじを書いてきたワタクシですが、それでも一応ネタバレ回避の逃げ道を用意しておりました。
 ですが今回、なんの断りもなくがっつりネタバレあらすじです。……えっと、正直、もういいかなって(オイ)。てゆーかやっぱり、明治から昭和の作品でネタバレあらすじじゃないものを探す方が難しいと思うのです(開き直った)。
 それにこの時代の作品は特に、展開を読ませるというよりも、テーマがどう描かれているかにスポットが当たっている気がします。そのため、何度も書いてきましたがネタバレ自体はこれから作品を読む感動の妨げにならず、むしろ指針というか、解釈の手助けにもなってくれると思うのです。
 弊社榎本事務所による『文学で「学ぶ/身につく/力がつく」創作メソッド』(DBジャパン)は「短編の本文を丸ごと+弊社からの読書&創作案内」というセットを十本以上と色々大盤振る舞いな本なのですが、この本の中でも必ずあらすじを掲載しています。本文を載せているのに、です。あらすじが本を選ぶきっかけだけでなく、読み進めるのにも助けになってくれるものだからですね。あ、もちろん自社本の宣伝です(タテマエって言葉知らんのか)。
 まあこちらは本文を載せているものに関してはネタバレに配慮しています。けれどこの記事では本文を載せていないため、やはり語るには結末が必要で……(それが本音か)。

「勝手にモデルにしないで!」……と、作家は言ってはいけません?

 さて遅くなりましたが、今回紹介するのは田山花袋(たやま・かたい)作『蒲団』。これは私小説の走りといわれる作品です。私小説は「わたくししょうせつ」や「ししょうせつ」と読み、作者自身の体験を赤裸々に描いた小説のことです。もちろん小説ですから多少のフィクションも織り交ぜられています。主人公の名前も田山花袋ではありませんし、芳子や秀夫のモデルとなった人物たちの名前も違います。
 そう、この作品、私小説なので当然ながらモデルがいるのです。
 えっと、あらすじにも書いていますし、特に先に作品を読んだ方なら私の「うわあ」感がわかると思うのですが、モデルとなった当人たちからするとつまり暴露本なんですよね……。竹中時雄(田山花袋)のことも結構きも……いえ、赤裸々なのでよくこんなの世間に発表できたなとむしろ感心するくらいなのですが。暴露された女弟子とその恋人にとってはたまったもんじゃないです。『蒲団』によってこのモデルたちは、あっという間にスキャンダルの渦中に放り込まれてしまうのです。現代でも芸能人の熱愛報道が世間をにぎわしますが、それに近いのでしょうか。
 現代ではプライバシーや名誉、権利を侵害するような表現はNGです。とはいえ、作家も無い引き出しは開けられません。創作では無意識に誰かをモデルにしてしまうのはクリエイターあるあるです。実は田山花袋の女弟子とその恋人も作家。自分がやってしまう(であろう)ことを他人にされたからといって文句は言えないのでしょうか。……いや、これはアカンやろ。と彼らに同情してしまう内容は、ぜひ読んでみてください。

明治という時代を踏まえて

 上記のあらすじからもわかるように、この作品は非常に気持ち悪……いえ、赤裸々です。なおかつ、この作品では非常に芳子の処女性が重要視されているのです。
 彼らの年齢は作中で二十歳前後、大学生くらいです。学生の身とはいえ現代の恋愛であれば、恋人間の肉体関係の有無はそう問題にはならないのでしょうが(予防さえきちんとしていれば)、時代が違います。
 作中で芳子は新しい時代の女性として描かれ、男友達とも平気で遊びに行きますし、議論もします。これは一昔前、時雄の細君などの時代には考えられないことでした。(時雄が三十代半ばなので、細君は三十前後、芳子たちより十ほど年上と予想します。)そんな芳子を「時代が違うから」と時雄は認めているのですが、それでも恋愛に関しては「神聖」であることを求めています。これのみであればこの時代の風潮なので、後世の私たちが作品を読む上での違和感は仕方のないことです。むしろそういう時代であったと認識した上で読むべきでしょう。
 とはいえ時雄の身勝手な持論、心境などは女性として腹立たしいものが多い。非常に多い。
 「妻と子――家庭の快楽だと人は言うが、それに何の意味がある。子供の為めに生存している妻は生存の意味があろうが、妻を子に奪われ、子を妻に奪われた夫はどうして寂寞足らざるを得るか。」(本文より抜粋)
 だの、毎朝通勤途中で出逢う美女を見て、産褥で妻が死んで(細君が妊娠中のときだった)、この美女を後妻に入れたらどうだろう的なことだのを普通に考えているのですよこの男。芳子に対しても年齢が違うし師弟の関係だから無理だけれど、もし後妻にもらうことができたら……なんて妄想がいっぱい。それだけに、芳子が処女であることを望み、そうでなくなっていたことを知って憤るのです。
 いやまあ、口に出しているわけではなし、あくまで当時の倫理観で正しいという内容に基づいて芳子の恋愛について戒めるわけなので、その辺りは理性を持った大人と言えなくもないのですが。うん、客観的に助言をしようとしてる点はむしろプラスポイントのはず。そう、「はず」なのですが。なんというか、なぜか芳子の愛情を確信しており(時雄の勘違いちゃうんか)、そもそも「女性」を下に見ている感がそこかしこにあり。やっぱりどうにも気持ち悪……げふげふ(ほとんど言ってる)。

フェミニストにはお勧めしません。

 時代が違うと言ってしまえばそれで終わってしまうことなのかもしれません。先にも述べたように、そういう時代だったことは、特にクリエイターとしては踏まえておくべきです。けれどそれだけで終わらせたくない。特段フェミニストというつもりはないのですけれど、女性としての感性が嫌悪感を訴えるのです。
 てゆーか時雄は芳子の処女性にこだわりすぎなんですよ。それで処女でなくなったら失望するって、勝手すぎる。
「その処女の節操を尊ぶには当らなかった。自分も大胆に手を出して性慾の満足を買えば好かった」(本文より抜粋)
 ……好くない! 全然好くない‼ と、怒りに悶絶しました。
 とはいえ女性の処女性を重んじるのは、現代でもある話ではないでしょうか。嗚呼、なぜ男性は女性の処女性をこんなにも重要視するのか。逆に男性の童貞は恥ずかしく言われることさえあるのに。
 処女も童貞もそうじゃなくても、どっちだっていいよ! いろんな意味でデリケートな問題なので肉体関係に慎重であってほしいとは思うけれど、恋するもしないも一生懸命生きてるならいいじゃない‼(脳内のちゃぶ台返しながら)
 と、脳内の私をデフォルメするなら、眼光鋭く鼻息荒く肩を上下させていることでしょうが。ご安心ください。何も壊しておりません。椅子の上に行儀よく胡坐をかいてPCで原稿書いております(いや行儀悪いわ)。 あ、今回処女処女書きまくっているのはそういう作品だからでして(作中にも結構この言葉出てきます)、私の品性の問題ではございません!(あさっての方を見ながら)

【執筆者紹介】粟江都萌子(あわえともこ)
2018年 榎本事務所に入社。
短期大学では国文学を学び、資料の検索・考証などを得意とする。
入社以前の2016年に弊社刊行の『ライトノベルのための日本文学で学ぶ創作術』(秀和システム)の編集・執筆に協力。

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