芥川龍之介・作『杜子春』
〈あらすじ〉
舞台は古代中国は洛陽。裕福な家に生まれた杜子春は、両親を亡くし、その日の宿に困るほどすっかり没落してしまった。あるとき杜子春はとある老人に出会う。老人の言うとおりに地面を掘ると、車いっぱいの黄金を手に入れた。しかし贅沢をした結果、3年と経つ頃にはまたすっかり貧乏になってしまった。そして杜子春は再びあの老人に出会い、また言う通りに地面を掘って大金持ちに返り咲いた。だがやはり3年たつ頃には貧乏に舞い戻ってしまう。三度杜子春の前に現れた老人に、杜子春は大金持ちの時にはすり寄ってきて、貧乏になったら離れていく。もう「人間」に愛想が尽きた。あなたは仙人だろうから、どうか弟子にしてほしいと頼み込む。そんな杜子春に、老人は「仙人になりたければ」とある課題を与えるが……。
タイトルは人名
芥川龍之介・作『杜子春』。今なお書店で平積みされるような有名作品です。
「またか!」と言われそうなのですが、すみません。タイトルの『杜子春』が人の名前だとまったく知らなかったワタクシです……。この連載を書くにあたり、昔読んだ作品やら未読作品やらを読み漁っているのですが、『杜子春』は未読だった作品のひとつ。文庫本だと大抵『蜘蛛の糸』とセットになっていることが多いのですが、『蜘蛛の糸』のストーリーを知っていたがために手を出さずに来た本なのでした。実は私と同じような読者様も多いのではないでしょうか。ちらっ。
連載を重ねるごとに、決して読書量が多くないことが順調に露呈していっている気がしますが、この連載を読んでくださる方には少なからずそういう方もいらっしゃると思うので、皆さんと一緒に学ぶ気持ちで頑張ってます!
こんなことを書くと、文学部出身が疑われそうな気がしますが、いえ、経歴詐称ではございません。ですがまあ、不真面目な学生だったことは……認めます……ごにょごにょ。
オタクあるあるだと思うのですが、自分の興味があること以外は、たとえ「文学」という同じくくりだったとしても手を出さないものでして。自分のゼミ課題以外のことはあんまり知らない、知っていても学生時代は遥かかなたなので学び直し(忘れているとも言う)……なんてよくあるよね!(開き直るな)
杜子春はアホの子?
読んで最初に思ったのは「3度も貧乏になるってあんたアホの子ですか」と。1度目、両親が亡くなって没落したのは仕方ない。2回目、急に黄金を手にして豪遊しちゃったのもわかる気はする。ですが再び黄金を手にして、またまったく同じように3年で食いつぶすって、杜子春さん、「どんだけぇ~⁉」ってなもんですよ。ちょっとくらい残しておこうとか、黄金を元手に商売を始めるとか、考えつかなかったのかしら。つかなかったのよね。(反語?)
挙句、勝手に「人間に愛想が尽きた」って。そりゃああなたが努力もせずにお金を使うことしかしなかったから、お金以外あなたに興味を持たない人しか集まらないよね。お金目当てなんだからそりゃあ貧乏になったら離れていくよねー。さも自分は恵まれない人間のように言っていますが、私から言わせれば被害者ぶるのはお門違い。「類は友を呼ぶ」という言葉をご存じなかったのでしょうか。
唯一「仕方ないかな」と思えるとしたら、彼がもともと裕福な家の出身だったことです。没落する前の彼がどういう生活をしていたのかは語られていませんが、黄金を手にしたあとの贅沢を考えれば、少なくとも衣食住に困ったことがなく、贅沢の仕方を知っている程度にはお坊ちゃんだったんだろうということは予想できます。想像するに、何不自由なく育てられた杜子春はお金の稼ぎ方どころか、使い方も学んでこなかったのでしょう。ああ世間知らずって怖い。
そんな彼だからこそ、自分が人として未熟なのを棚に上げて、仙人になろうとするのです。仙人になろうとした時点で改心したようにも思えますが、つまり人でないものになろうとしています。地道にやり直すのではなく、仙術が使える浮世離れした存在になろうというのは、一種の現実逃避でしょう。
悪い人ではないのです
と、散々杜子春をディスってしまいましたが、決して悪人とも思いません。人として好きでもないけれど(言っちまったい)。
仙人になろうとした杜子春は、老人の課題にひたすら耐え続けるのです。割と、というかかなりひどい拷問もされているのに、杜子春は耐え抜きます。というか、なんでそんな忍耐力とか根性とかがあるのに、お金を使うことには我慢できなかったのかなあと不思議なくらいです。いや、だからこそ「使い方を知らない」ってことなのでしょうね。贅沢をしていた自覚があったかも怪しく思えてきます。
そうして試練の先に杜子春は改心することになるのですが、その結末はぜひご自身で確かめてください。ただしその選択をした杜子春が、果たしてちゃんと生きていけるのかは今も疑問に思っています。それくらい、私には「杜子春はアホの子」「救いようのない世間知らず」というイメージが抜けないのです。
どうせなら仙人じゃなく、たくましい商家のお嬢さんとかと出会った方がいいんじゃないかなあと思うのは、オタクの思考かしら。人は好いがアホの子と、彼の手綱を握る守銭奴嫁とか、一本小説書けそうじゃありません?
ネガティブレビューとはちょっと違います
一貫して杜子春sageしちゃった自覚はあるのですが、作品をけなすつもりはありません。いえ、言い訳ではないのです。
作品の主題からは逸れた楽しみ方をしているのかもしれません。それは認めます。けれど「好きじゃない」という感想を抱かせるというのは、キャラクターとして完成しているとも思うのです。『源氏物語』の記事を書いたときにもお話しましたが、「好きじゃない」「嫌い」という感情も、感想としては正しく、作品そのものへの評価とも異なります。
というか、その作品が嫌いだっていいじゃない! と思います。クリエイターとしてはできるだけ多くの人に愛してほしいと思うものですが、それはそれ。「好きじゃない」と感じる人がいるということは、必ず「好き」になってくれる人もいます。「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」とはよく言いますが、引っかかるものが何もない作品こそ、はっきり言って駄作なのだと思います。まあそれも、受け取る人によって違いますしね。
『杜子春』に話を戻しますと、私はキャラクターとしての杜子春は好きになれませんが、その世界観を空想し、「守銭奴嫁がいたら面白いかも」と妄想さえしました。この場合の「面白い」は「エンタメ的に私好みである」という意味です。ほら、オタクってすぐ薄い本とか二次創作とかするじゃないですか。あっ、そこのあなた、実は同志ですね⁉(キラン) とまあこんな感じですので、私はやはりこの『杜子春』という作品をしっかり楽しんでいるのです。楽しみ方は自由ですよね!

【執筆者紹介】粟江都萌子(あわえともこ)
2018年 榎本事務所に入社。
短期大学では国文学を学び、資料の検索・考証などを得意とする。
入社以前の2016年に弊社刊行の『ライトノベルのための日本文学で学ぶ創作術』(秀和システム)の編集・執筆に協力。