『李陵』―粛々と語られる英雄たちの生き様

粟江都萌子のクリエイター志望者に送るやさしい文学案内

中島敦・作『李陵』

〈あらすじ〉
 古代中国・漢の時代。漢は外敵である胡族に悩まされていた。李陵は少ない人数で胡族の一隊を撃破すると武帝に約束する。しかし政敵の策略や味方の裏切りに遭い、敵の本隊と戦うことに。敗戦した李陵は敵に捕らえられてしまう。李陵はいつか手柄を立てて帰国するため、生きて敵方に下ることを選ぶ。しかしそれを漢の人々は裏切り者と決めつけるのだった。
 そんな李陵を擁護する発言をした司馬遷は、宮刑を受ける。死を覚悟したとはいえ、生きながら屈辱を受けた司馬遷は、生きる意味に苦悩する。そしてかねてから取り組んでいた史書の執筆に没頭する。
 李陵よりも一年早く、胡地にとどめ置かれた蘇武という男がいた。彼は敵に下るくらいならと自害しようとしたこともある男だった。李陵は古い友である蘇武に北の地で再会する。

中国古典を題材にした作家・中島敦

 中島敦といえば『山月記』を思い浮かべる人も多いでしょう。中国の古典『人虎伝』に取材した、発狂して失踪した人が人食い虎に変身していたという作品です。私は高校の教科書で初めて出会いました。私と同じような方もいらっしゃるでしょうか。
 今回取り上げるのは同作者の『李陵』。文庫本では『山月記・李陵』と2タイトルを併記しているものも複数あるので、タイトルだけは知っているという方も多いのではないでしょうか。
 李陵とは人の名前です。姓が「李」で名が「陵」。え? 見ればわかるって? いえ、あの、私、何年も知らなかったもので……。中国では「李」という苗字はありふれていると聞いたことはあったのですが、名前が短いせいか、人の名前ということに考えが結びつかなかったのです。
 そういえば昔、留学生の方に友人が苗字を名乗ると「それはファーストネームですか? ファミリーネームですか?」と聞かれていました。彼女が名乗ったのは日本人ならば誰でも苗字だとわかるものだったのですが、馴染みのない外国の方にはわからないですよね。下の名前も、なんとなく女性っぽいor男性っぽいというのがありますが、それも外国のものだとわからなかったりする。そうしたいつの間にか備わっている感覚というのは不思議なものだなあと思います。いかん、脱線しました。
 あらすじで少し紹介しているとおり、『李陵』では李陵だけでなく司馬遷と蘇武という人物が登場します。李陵という将軍を軸に、同時代に三者三様の生き方をした彼らの半生(というには少々短いかもしれませんが)が描かれています。
 国のために尽くそうとしたのに、かえって裏切り者の烙印を押された李陵。
 李陵という人と親しかったわけでもないけれど、ただ己の信じるままを貫き、刑罰を受けた司馬遷。
 李陵と同じような目に遭いながらも、祖国への愛を忘れなかった蘇武。
 この三人の生き様はこうして書くとドラマティックですが、『李陵』では粛々と、けれど人間くさく描かれています。

語り部・中島敦

 この『李陵』を最初に読んだときの感想は「まるで大河ドラマのナレーションのようだ」でした。
 この作品は登場人物ではなく、第三者の視点で語られています。小説では、三人称でも視点人物というのが定まっている場合が多くあります。視点人物の多くは主人公でしょう。そうすると主人公(視点人物)の感情に寄った文章になり、主人公が見ていないもの、知り得ないことはほとんど描かれません。
 『李陵』は第三者視点のため、登場人物の誰に感情移入するでもなく、ただ事実だけが述べられていきます。台詞もカギかっこでくくられてるものもあるのですが、会話劇ではなくあくまで語りの中。まるで中島敦という観察者が『李陵』の世界を語り継いでいる。そんな印象を受けました。
 ですが「淡々と」というほどの冷たさはなく、熱量も大いにあります。大河ドラマといえば日本のものでもアジアのものでも、戦闘シーンの疾走感がつきものではないでしょうか。李陵が敵と戦い、敵に捕らわれるに至るまでの戦闘シーンは、本当にドラマを見ているようにイメージが湧いてきました。そして感情の描写も、むしろ文章が冷静であればこそ、登場人物たちの憤りや虚しさが伝わってきます。
 あるいは「歴史書のようだ」とも思いました。登場人物の一人、司馬遷は中国の歴史書『史記』を執筆したことで有名な人物です。作中にももちろん登場します。司馬遷は作中で史書を執筆するにあたり、「述べる」ことにこだわり「作る」ことを戒めています。フィクションではなく事実を伝えるためのものだからでしょう。そのために一度は削除した文言を、けれど「これでは項羽が項羽ではない」と元に戻したというエピソードも作中に登場します。これの部分を読んだとき、『李陵』もまた歴史書のようだと感じたのです。語り部としては冷静に、けれど登場人物の生き様や躍動感、熱量のそのままを書く。まさに『李陵』の文章です。

誰の生き方が正しいのか

 冷静であるのに冷たくない文章。時には熱さえ感じさせます。その文章が為せる技でしょうか。『李陵』において、この三人の生き方の善悪や優劣は語られていないのです。
 もちろん、周囲が彼らをどう評価したかは描かれています。ですが作者が彼らをどう思っているかという意見は、作中に見えてきません。
 小説を書く者は、或いは漫画家でも良いでしょう。キャラクターを愛して欲しいと思っています。そのため、特に主人公は共感や好感を持てる人物に造形することが多い。応援できない主人公では、読者の心が離れていってしまうからです。
 しかし『李陵』ではそういった意図を感じません。李陵は祖国に裏切られたかわいそうな人間のようでもありますが、彼自身無慈悲とも思えることをするシーンがあるのです。けれどだから自業自得だとするでもなく、李陵を完全なる被害者にすることもありません。ただ李陵の選択や感情の変化は自然で、だからこそ人間くさい。他の二者についても同様です。特に宮刑を受けた司馬遷の苦悩は、心に迫るものがあります。ちなみに求刑とは腐刑とも言い、男性の機能を手術で奪う刑罰のことです。強制的に宦官にさせられてしまうということですね。
 彼らの生き様をどう思うかは、読者に委ねられています。あなたはどう思うでしょうか。ちなみに私は李陵の2番目の奥さんとの物語なんかを読んでみたいものです。彼の地で没した李陵が、少しでも救われる時間があったことを祈って。

【執筆者紹介】粟江都萌子(あわえともこ)
2018年 榎本事務所に入社。
短期大学では国文学を学び、資料の検索・考証などを得意とする。
入社以前の2016年に弊社刊行の『ライトノベルのための日本文学で学ぶ創作術』(秀和システム)の編集・執筆に協力。

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