『地獄変』―芸術を追い求める男と明かされぬ真実

粟江都萌子のクリエイター志望者に送るやさしい文学案内

注意。本記事にはネタバレが含まれます。

 今回ご紹介するのは芥川龍之介・作『地獄変』。ちょっとおどろおどろしいタイトルです。内容も……うん。
 前回の記事にて「ネタバレビューは遅るるに足らず」などと豪語したワタクシですが、今回はその前言を大いに活用することにいたします。あらすじをお読みいただくとお気づきになることと思いますが、ええ、がっつり結末まで書いております。ですので今回はあらすじを下記にまとめました。
『地獄変』は短編小説です。ネタバレがどうしても嫌だという方はぜひ先に本編をお読みになってください。ワタクシこちらでお待ちしておりますので。ええ、ネットの中ですから削除されない限りはいつまでも待てます。中の人が寝てたって死んでたって待てます。嫌です。寝たいけど死にたくないです。

 さて、忠告はしましたよ? いつネタバレが飛びだしてくるかわかりませんが、いいですね?
 なんて脅すような確認を取ったものの、この作品においてネタバレにさほど意味はないように思うのです(あくまで個人の見解なので異論は受け入れましょう)。でゆーか『地獄変』の紹介文、大抵どれを読んでも結末が書いてある気がしますし。
 もちろん、ネタバレを嫌う方々の気持ちもわかります。私も普段は純文学よりエンタメ小説に親しんでいるものですから、そういった作品は内容がわかってしまうと「ま、いいか」と後回しにしてしまうこともあります。割とネタバレが平気なタイプなのですが、そんな私でもそうなのです。ネタバレされると新しい発見がなくなったと、読むのをやめてしまう人も多いことでしょう。
 けれど小説の良さはそれだけではありません。文章の美しさ、描写の躍動感、読者をミスリードするギミック……エトセトラエトセトラ。ネタバレされたからといってそれらが失われることは決してなく、読者は楽しむことができます。特に過去の作品は、だからこそ現代まで評価され続けていると言っていいでしょう。現代で評価されている作品ももちろん面白いし、クリエイターとして参考になるものもたくさんありますが、やはり文豪たちの作品も忘れてはいけません。これは『地獄変』や芥川龍之介に限らず、ほかの文豪たちにも言えることです。そういった時代を超えて評価される「良さ」を盗みとってくださると幸いです。
 と、もっともらしいことを書きましたが、要はネタバレしないとこの作品について語れないんですよ。ネタバレ部分を語りたいんです、私が!(勝手だな、おい)
 さ、ここまで前置きすればもう大丈夫ですよね? 行きますよ? この後のネタバレ苦情は受け付けませんよ? いいですね?(しつこい)

ネタバレビューは恐れるに足らず、アゲイン!

〈あらすじ〉
 舞台は平安時代、堀川の大殿という貴族に仕える人物によって語られる。
 良秀という当代一を自称する傲慢な絵師がいた。良秀は絵のためなら死体の写生をしたり弟子に無理なモデル役をさせたりと大変な変わり者であった。良秀が溺愛する一人娘が堀川の大殿に仕えており、大殿も可愛がっていた。良秀は優れた絵の褒美をやろうという大殿にたびたび「娘を下がらせてくれ」と頼んでは大殿の不興を買っていた。
 あるとき、良秀は堀川の大殿の命で「地獄変」の屏風を描くことになる。子煩悩の良秀だが、作品に没頭して何か月も大殿のお屋敷に訪れなかった。そんなとき、語り部は娘が誰かに襲われたであろう現場に遭遇する。しかし相手が誰であるか、娘は決して言わなかった。
 絵が完成に近づくと、良秀は見たものしか描けないため、美しい装いをして牛車に乗った女性が焼かれる様子を見たいと大殿に願い出る。大殿はそれを聞き入れ、牛車に罪人の女を乗せて火を放つことを約束する。
 そしてその日、牛車に乗せられていたのは良秀の愛娘であった。良秀は驚くものの、いつしか恍惚とその光景を眺めていた。そこには人とは思えないような厳かさがあり、人々は仏でも見るような気持ちで良秀を見つめた。だが大殿だけは、青ざめていた。
 その後「地獄変」の屏風は見事な出来で完成した。良秀を悪く思っていた人間までその絵を褒めるほどであったが、良秀は屏風が完成した翌日に自ら命を絶つ。

ちりばめられた謎の欠片たち

 語りたい部分のこともあるので、ちょっと詳しめにあらすじを書いてみました。てゆーか今からでも本編を読んでもらって構いません。語りたいというより、これは議論したい気持ちかもしれません。あらすじより本編を載せたいくらいです。
 あらすじに書いてみると、人の道を外れた芸術家が絵のために娘を犠牲にしてしまった因果応報と狂気の物語に映ります。百科事典などでは「芸術至上主義」「悲劇」「倫理」などがキーワードとなっているようでした。大筋としてはそうなのでしょう。ですが冷静になってみると、腑に落ちない部分というのが数多く出てくるのです。もしやこれはミステリーなのでは……? そんな風に思えてなりません。私が語りたいのはここなのです。

良秀はなぜ娘を見殺しにしたのか

 これはかえってシンプルかつ、この記事の読者には理解しやすいかもしれません。
 他の文献で「芸術至上主義」と書かれている言葉の通り、人としての倫理や父親としての愛情よりも、自らの作品に対する渇望が勝ったということなのでしょう。芸術家としての道を探求するあまり、人として外れ、果ては最愛の娘すらも見殺しにした男の狂気を、恐ろしく感じます。
 私も曲がりなりにも作り手側の人間として自由気ままに生きています。孫の顔どころか花嫁姿も見せず、あんまり帰省もしてないんだよなあ。すまん、ちちはは……。と、申し訳なく思いつつ改めない身勝手さ。良秀と何が違うのだろうと恐ろしくなるのです。「そんな深刻な話ちゃうやんけ!」と言われそうなものですが、そう言われる程度で収めておきたいものです。いやまじで。ぎくりとするクリエイター(と志望者)は存外多いのではありませんか? ちらっ。

大殿はなぜ娘を「罪人」としたのか

 語り部は大殿を徹底して「いい人」だと語っています。そんな娘を生贄にするとは。驚いた読者も多いでしょう。私もです。大殿の様子からも、娘が牛車に乗っていることを知らなかったようには思えません。何より御簾が上げられて中の人物を見た上で点火の命令をしているのです。
 まさか娘を襲ったのは大殿だったのか、娘が拒んだから大殿は娘を「罪人」に選んだのかと想像させられた読者も多いでしょう。
 私の愛用する(高校時代にはあんまり愛用しなかったけれど)『新総合図説国語』(東京書籍)には大殿が娘を想っていたという内容の文言があります。ネット上のレビューや解説などでは「犯人は明らかに大殿である」としているものも見られます。それを肯定すべきなのか迷うところですが、否定するだけの材料もありません。
 加えて、周囲が良秀を仏のように感じて見つめる中、唯一青い顔をしていた大殿。これは目論見が外れたから悔しがっているとも取れるのではないでしょうか。そうすると、冒頭から一貫して語り部が大殿に入れているフォローも、意味をなさなくなってくるのです。
 そもそも、大殿はなぜ「地獄変」を描かせようと思い立ったのか。それもわかりません。

語り部は真実を語っているのか

 『地獄変』は一貫して一人の語り部によって語られています。普通ならば、このナレーションを疑うことはあまりないでしょう。ですがこの語りこそ不自然な点も見受けられるのです。
 大殿の下心を常に否定しているものの、何度も否定されるとかえって疑わしくも感じられます。しかもこの語り部、大殿を善人として賞賛しまくっているのですが、さらっと大殿が橋を作るために子供を人柱にしていることをも語っているのです。
 嘘をつくつもりでそうしているのか、長年仕えた主を盲目的に善人だと信じているのか、大殿は真実善人であったのか。人柱に関しても、現代と当時とでは価値観も意味の重さも違うでしょうから。
 とはいえ賞賛したかと思えばネガティブな表現を使ったり、そういうちぐはぐな語りが随所に出てきます。いかに芸術家として厳かな気迫を感じさせたからといって、目の前で娘が焼き殺されているところを止めもしない父親を仏のように見つめるって、冷静に考えると正直わけわかんないですよね。いや、それだけ良秀の空気がすごかったっていうことなのかもしれませんが、大殿以外の全員が「仏でも見るように」なんて、アリなのか?
 仮にこの語り部を信用できないとすると、良秀や娘、大殿の人物像が大きく変わってきます。あるいは語り部自身が娘を襲った犯人なのではという可能性も捨てきれません。
 一人のみが語るということは客観性を欠いたものであり、叙述トリックが可能になるのです。

娘の人間性

 良秀の一人娘は美しく、年の割によく気が利いて周囲から可愛がられていると描かれています。
 ただしあえてこの娘の人間性に疑問を持つならば、誰かに襲われたであろうシーン。
「が、その晩のあの女は、まるで人間が違ったやうに、生々と私の眼に映りました。」(本文より抜粋)
 この後、襲われた女性を描写するにはなんともなまめかしい表現が続きます。これも語り部のちぐはぐ感があるシーンなのですが、語り部は男性です。少女だと思っていた娘の「女」を垣間見てスケベ心を出したとも考えられます。ならば色っぽい描写にも納得でしょうか。
 しかし実際、娘が生き生きとしていたとしたら。咄嗟に襲われた風を装ったけれど、本当は男との逢瀬を楽しむみだらな女性だったとしたら。大殿が娘を「罪人」とした理由がここにあるかもしれません。あくまで可能性の話です。

真実は藪の中

 考察を重ねてみても、本文中に書かれていない以上は推察の域を出ません。あるいは識者の方々がもっと踏み込んだ考察をなさっていることでしょうが……。実はこれを書いているのは2020年の春。コロナ禍により外出自粛の真っ最中ですので、大好きな図書館に足を運ぶことができません。いつか心置きなく図書館通いを再開して、いろいろな考察を読んでみたいなあ。
 そして『地獄変』が真実の明かされない物語としてお気に召したなら、もうひとつ同作者の『藪の中』をおすすめします。真相がわからないことを「真実は藪の中」などという言い回しをしますが、この言葉の元となった作品です。 こちらは複数の登場人物たちの証言によって構成されていますが、その内容が微妙に食い違っているというお話です。『藪の中』も短編で、青空文庫でも読むことができます。また弊社・榎本事務所による執筆・編集の『文学で「学ぶ/身につく/力がつく」創作メソッド』(DBジャパン)の中でポイントや解説なども紹介しておりますので、こちらもよろしければ是非。ほかの短編も色々載っていますので、この記事を最後まで読んでくださった文学に興味のあるあなたには大変オススメです(積極的に自社本を宣伝していくスタイルです!)。

【執筆者紹介】粟江都萌子(あわえともこ)
2018年 榎本事務所に入社。
短期大学では国文学を学び、資料の検索・考証などを得意とする。
入社以前の2016年に弊社刊行の『ライトノベルのための日本文学で学ぶ創作術』(秀和システム)の編集・執筆に協力。

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