源平合戦で武家政権が固まる
武士の中心勢力として源氏と平氏の二系統があり、皇族・貴族も絡んだ争いの末に一時の勝利を掴んだのが平清盛を始めとする平氏だった。彼らの政権が最初の武士政権とされる。
しかし清盛の死後に源頼朝・義経を中心にした源氏が勢力を取り戻し、源平合戦が勃発。ついに壇ノ浦の戦いで平氏が滅んだ。その立役者の義経は頼朝と仲違いし、東北の独立勢力である奥州藤原氏を頼ったものの裏切られて殺され、藤原氏も頼朝により滅ぼされた。
頼朝は鎌倉に幕府を築き、征夷大将軍になって、本格的な武家政権を樹立した。鎌倉時代の始まりである。ただ、源氏が幕府の頂点に立っていたのはごく短い間に過ぎなかった。三代で血が途切れてしまったからだ。
代わって幕府を主導したのは将軍の補佐役「執権」を務めた北条氏だ。血筋としては平氏だが、頼朝の妻北条政子を輩出したことから源平合戦では頼朝に味方している。
鎌倉時代には幾度か危機があった。一つはごく初期の源氏直系が絶えたばかりの頃で、政治の主導権を奪われた朝廷の逆襲、承久の乱である。後鳥羽上皇は多くの武士を従えて北条氏に戦いを挑んだが、最終的には破れてしまう。
もう一つはいわゆる「元寇」だ。この時代、ユーラシア大陸を席巻していたのがモンゴル帝国(元)である。モンゴルの遊牧民を母体とする彼らはその強大な軍事力によって急速に勢力を拡大、最盛期にはアジアどころかヨーロッパにまで至る巨大帝国を作り上げていた。
朝鮮(高麗)を支配したモンゴル帝国はさらなる進出先として日本に目をつけ、二度にわたって兵を送った。これに対して鎌倉幕府は九州の武士たちを中心に立ち向かい、暴風雨の助けもあって撃退に成功している。三度目の可能性もあったが帝国内の反乱もあって実現せず、またそもそも遠征が失敗したのも帝国内部の多様な人種の対立があったとされる。
創作のヒント:武士の心意識とチンギスハーン
鎌倉武士の心意気は「御恩と奉公」。これは「日頃恩があるからその分返さないといけないね」などというふわっとした道徳ではない。「土地の所有を認めてくれるならいざという時は戦いますよ」がその正体だ。つまり、「ギブアンドテイク」の精神なのである。逆に言えば、土地の所有を認める力がなければ、幕府はすぐに見限られてしまう。実際この後幕府が崩壊するのもそのせいが大きい。この辺りの武士が持つシビアな感覚は、あなたがハードな政治・戦争劇を描くときにはぜひ意識してほしいポイントである。
もう一つ。モンゴル帝国の創始者、チンギスハーン(ジンギスカン)は源義経だ、という伝説がある。これは間違いなく創作なのだが、非常に面白い作り話ではある。義経の子孫が頼朝の作った幕府を攻めるのだから! こういう「面白さ」はどんどん見習ってほしい。