夏目漱石・作『こゝろ』
〈あらすじ〉「中、両親と私」
大学を卒業した私(わたくし)は、卒業証書を持って帰省する。父は病気をしており、私の思うより元気そうであった。私の卒業を喜んだ両親は、客を招いて卒業祝いの宴会をやろうとする。私は気が向かなかったが、両親の言葉に従うことにした。
しかしその宴会が開かれる前に明治天皇の病気が報じられ、自粛ムードとなって宴会は取りやめになった。それに引きずられるように、父の病状も徐々に悪くなっていく。そしてとうとう明治天皇が崩御し、父は気落ちしてますます病状が悪くなる。
不安がる母はなんとか私に職を得させようと「先生に仕事を世話してもらえないか手紙を書きなさい」と言う。私は気の進まぬまま、それでも両親が安心するならと先生に手紙を書いた。
私は東京へ戻ろうとしたが、その直前に父が倒れる。故郷にとどまり、遠方の兄や妹の夫などを呼び寄せた。そんな中、乃木大将が明治天皇に殉死する。そして私のもとへは先生から会いたい旨の電報が届く。だが父の病状が思わしくなく、私は故郷を離れることができなかった。
そしてとうとう父が危篤に陥ったとき、先生から分厚い手紙が届く。私はきちんとその手紙を読む前に、結末の「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にいないでしょう。」という文言に気づき、危篤の父を残して汽車に飛び乗る。
ようやく主人公らしいかもしれない
夏目漱石・作『こゝろ』。前回はほとんど人物紹介のみで終わってしまいましたが、今回も似たようなものです!(威張るな)
前回、主人公なのに「私(わたくし)」についてはほとんど触れられませんでした。語り部である「私」は、ともすると当事者であって当事者でないような存在です。「下、先生と遺書」に関しては完全に「先生」の一人語り(手紙)なのですから、「私」はほとんど登場しません。
だからこそちょっと迷います。この『こゝろ』は、つまるところ誰が主人公なのだろうと。「私」は単なる語り部で、「先生」こそが主人公という見方もできるかと考えましたが、それにしては「私」の自分語りも結構あるのです。この「中、両親と私」は舞台を完全に「私」の故郷に移しており、「先生」は多少話題にのぼったり電報のやりとりをしたりしますが、本人は登場しません。「中」は「私」のドラマであると断言できます。
整理してみると、
1.「上」で「先生」と「私」の関係性が緻密に描かれ、
2.「中」で「私」のバックボーンともいうべき故郷とその現在が描かれ、
3.最後の「下」で「先生」の過去(バックボーン)が描かれるわけです。
つまりまとめると、『こゝろ』は二人の世代の違う男性たちのバックボーンと現在、つまり生き方が描かれる作品と言えるでしょう。
小難しい(?)言い方をしましたが、つまりあれです。「二人とも主人公」というのが私の結論です。
「先生」と「K」の過去がショッキングな出来事であるだけに、『こゝろ』を紹介する際はそちらにフォーカスがあたることが多いです。確かに「上」「中」ともに「下」のその出来事への布石でしょうから、それも正解なのかもしれません。
「先生」は「下」の遺書の中で「最も強く明治の影響を受けた私ども」と言っています。だからこそ「私」は10歳も若い、「先生」より世代が若い人間でなくてはならず、その「私」の今が描かれるのではないでしょうか。「私」は「下」で描かれる「先生」と同じ年ごろですから。「私」も明治を生きた青年ではありますが、大学卒業とほぼ同じくして明治の世は終わります。それより10年ほど上であろう「先生」の方がより「明治らしい」のでしょう。
ちょっと驚いたのが、この時代の大学生って卒業前に就職活動しないんですね。とりあえず卒業することが第一で、その後のことはそれから考える。実家の援助に頼れない苦学生はそうもいかないのでしょうが、すねかじりの「私」はのんびりしたものです。
まあ、学生の本分は学業なのですから、本来それが正しいのかもしれません。そう思うと、現代は世知辛い世の中ですよねぇ(遠い目)。
死に瀕した父か、もうこの世の人ではないであろう彼の人か。
「先生」と「K」の話への布石としては、思いのほか長く「私」の故郷のエピソードが細かく描かれます。特に「私」の父の病状は悪くなったりよくなったり、正直じれったさすら覚えます。
とはいえ、人間の病気とはそういうものでしょう。私もいい年齢ですから、親族や知人の死はまあまあ経験しています。大叔父が晩年病気をしていたときは、何度か危篤状態に陥り、夜中だというのに父や祖母が出かけていく、ということが何度かありました。
けれど自殺や事故は、そうはいきません。それは本当に突然やってきます。「先生」は自殺を決意してから数日、「私」への手紙を書くために費やします。先生にとっては突然ではないのかもしれません。もしかしたら「K」も……いえ、これ以上はやめておきましょう。
ただ「私」の父の一進一退する病状と、「先生」の突然の死は、まるで対比のために描かれているようにも感じるのです。
そして手紙を受け取った「私」は「先生」の自殺の意志を知り、危篤の父を残して東京へ向かいます。家族の誰にも告げずに。そりゃあそうでしょう。言ったら止められるに決まっていますから。家族からしたら、薄情な息子かもしれません。
けれど「私」は「先生」を先生と呼ぶほどに尊敬し、慕っています。そして二人はおそらく「私」が大学に入学する前からの付き合いで、年齢こそ違えど「親友」というべき間柄だったのではないでしょうか。そんな人が死んでしまった。いえ、手紙の中の「先生」は少なくとも生きています。急げばその自殺に間に合うのではないか、止められるのではないかと思っても不思議はありません。それだと少し冷静でしょうか。もしかしたらそんな判断もできず、単にいてもたってもいられなかっただけかもしれません。
さらに薄情を承知でいうと、「私」の父は言ってみればもう寿命でしょう。それはある意味では自然な死。そうでなくとも、親戚を呼び寄せている時点で心の準備のようなものはしているでしょう。
けれど「先生」はそうではありません。自殺はいわば不自然な死です。唐突に突き付けられた不自然な死に「私」が理性を失うのも、自然であるところの父の死よりも優先してしまうのも、無理からぬことではないでしょうか。
その後の「私」について、詳細は描かれていません。「上」の冒頭がそれにあたりますが、すぐに「先生」との出会いを語り出すのでやはりわかりません。間に合ったのか合わなかったのか。 私は間に合わなかったろうと思います。「先生」の自殺にも、父の死にも。けれどもそれも、一読者の想像に過ぎません。言い換えれば、想像することが許されている作品でもあります。明かされていない「その後」が、物語に余韻を与えていると言えるのではないでしょうか。

【執筆者紹介】粟江都萌子(あわえともこ)
2018年 榎本事務所に入社。
短期大学では国文学を学び、資料の検索・考証などを得意とする。
入社以前の2016年に弊社刊行の『ライトノベルのための日本文学で学ぶ創作術』(秀和システム)の編集・執筆に協力。