芥川龍之介・作『トロッコ』
〈あらすじ〉
良平が八歳のとき、鉄道の建設工事が始まった。良平は毎日村はずれまで、工事に使われているトロッコの見物に行っていた。ある日、良平は二人の年若い土工がトロッコを押しているのを見かける。良平は「押してやろうか?」と声をかけ、まんまと手伝いという名目でトロッコを押すメンバーに加わる。しかし村から遠ざかるにつれ、良平は徐々に不安に襲われる。
芥川龍之介の『トロッコ』は、とても短い作品です。通勤や通学の電車の中でもさくっと読めてしまうので、まずこの記事を見る前に読んでもらってもいいかもしれません。
『トロッコ』は極めてシンプルな作品です。あらすじを書いてみたけれども、もっと簡略に言うと「少年がトロッコを押す話」。ほら、一言で終わっちゃいます。
でも単純なようで単純じゃなくて、でもやっぱりありふれている。それがこの作品の魅力のような気がします。だってつい読んじゃうんだもん。もちろん、短いからっていう理由だけじゃありませんよ?
『トロッコ』は誰しもが子どもの頃に経験している憧れと不安を詰め合わせた作品に思えます。八歳の子どもにとって、これは冒険譚と同じでしょう。良平は若い、けれど「おじさん」と呼びかける程度には大人の土工たちとトロッコを押します。もちろん親どころか兄弟も一緒ではありません。最初は楽しくてしょうがない。けれど村を遠ざかり、夕刻に近づくにつれ不安が増していき、それでも「帰ろうよ」とも言えない。背伸びをしたいからこそ言えないのでしょうか。かえって大人になってからの方が「どこまで行ったら引き返すんですか?」と、なんなら最初に聞いてしまうでしょう。
ですが子どもはそうじゃない。危機感というものが存在しないのでしょう。リスクを予想しないというか、目の前の楽しいこと好きなことが世界の全て。あとたまに、急に怒る怖い大人いるといることは知っているくらい。本当は怒られているんじゃなくて叱られているのですけれど、そんなことはまだわかりません。
だからショッピングモールやスーパーで好きなお菓子や面白そうなおもちゃに目を奪われて、気づけばひとりぼっち。隣の棚に母の姿が見えたときの安心感たるや。それならまだ良い方で、隣の棚にいないと急に泣きたくなったり。ほんの数分、いえ、数十秒のことでも、迷子になってこのままおうちに帰れないのではと絶望したものです。一度や二度の経験ではありません。そんなやんちゃな子どもだったつもりはないので、きっと誰もが、もしかすると私以上に経験しているはずです。ほら、あなたも身に覚えがあるでしょう?
誰しもが経験していることを、小説にすることに意味があるのです。こういう「あるある」は、身近にありふれているからこそ敢えて言葉にされなかったりします。けれどそれに言葉を与えるのが作家という生き物で、それによって物語のリアリティが増します。読者の共感を得られると、読者は作品に没入できる。だからこそ私はこの『トロッコ』を「つい読んじゃ」ったんですよね。この記事を読むだけでも「あー、あったなあ」とちょっと恥ずかしく懐かしくなっているそこのあなた。逆にまだぴんときていないあなた。是非その感覚を味わっていただきたいと思います。たぶん『トロッコ』の十分の一も伝えられていないので!(文学案内記事としてどうなんだ、それ。) それにしても親の姿が見えないだけで、なんであんなに不安になったんでしょうね。今じゃ一人でカフェも定食屋さんもラーメン屋さんも楽しんじゃうのに。え? 女が一人でラーメン食べて……なにか問題が?

【執筆者紹介】粟江都萌子(あわえともこ)
2018年 榎本事務所に入社。
短期大学では国文学を学び、資料の検索・考証などを得意とする。
入社以前の2016年に弊社刊行の『ライトノベルのための日本文学で学ぶ創作術』(秀和システム)の編集・執筆に協力。