命を捨てることの意味
命は多くの人にとって一番大事なものだ。特に「死後にも世界があり、人生がある」という価値観が弱くなった現代ではこの傾向が強い。
一方、近代以前は死後の人生について信じる人が多かったので「今の命より大事なものがある」という価値観は根強く、またこれと絡んで「自分個人の生命よりも家族や子孫のことを重視する」という考え方もあったので、現代ほどは己の命にしがみつかない人もいた。だがそれでも命を大事にするのは当たり前のことであり、自分から死ににいくというのは余程のことだ。
そして、その余程のことであるからこそ、物語において「自己犠牲」は重要な意味がある。命を捨ててまで為そうとすることがあり、命を投げ出してまで守りたいものがある、というのは大変に物語を盛り上げてくれるのだ。
どうやって、なんのために?
自己犠牲はどのような形でなされるだろうか。誰かを庇うために剣の切先や銃口の前に身を投げ出すのかもしれないし、守るべき人を逃したり時間を稼いだりするために単身出撃するのかもしれない。希少な食料や医療品をあえて他者のために差し出し、自分は死を選ぶのかもしれない。生命や魂を捧げて魔法や能力を使い、人々は救うが自分は帰らぬ人となる、ということもあろう。
ただ大事なのは、「なんのために命を捧げたのか」ということだ。自己犠牲は特に現代人にとって非常に特別なことなので、読者にとって納得のできない対象、納得のできない動機のためにやられてしまうと「え、なんで?」と大いに混乱させることになる。心優しい人が咄嗟に庇ったなどならまだわかるが、じっくり考える時間がある状態で特に縁のない人のために命を捧げられるのはよほどの聖人か、そうでなければ狂人であろう。この辺りの理由づけ、ロジックの整理をしないと、せっかくの盛り上がるシーンが活かせないということになるので注意しよう。


【執筆者紹介】榎本海月(えのもと・くらげ)
オタク系ライター、ライトノベル編集者。榎本事務所に所属して幅広く企画、編集、執筆活動に従事。共著として『絶対誰も読まないと思う小説を書いている人はネットノベルの世界で勇者になれる。ネット小説創作入門』などがある。
2019年に新刊『この一冊がプロへの道を開く!エンタメ小説の書き方』『物語づくりのための黄金パターン117』『物語づくりのための黄金パターン117 キャラクター編』(ES BOOKS)、『異世界ファンタジーの創作事典』『中世世界創作事典』『神話と伝説の創作事典』『日本神話と和風の創作事典』『ストーリー創作のためのアイデア・コンセプトアイデアの考え方』(秀和システム)を刊行。
2020年の新刊には『古代中国と中華風の創作事典』(秀和システム)がある。
PN暁知明として時代小説『隠密代官』(だいわ文庫)執筆。愛知県名古屋市の【専門学校日本マンガ芸術学院小説クリエイトコース】講師として長年創作指導の現場に関わっている。