第44回「日本の学校の歴史」

榎本海月の連載

古代と中世の学校

日本の学校の歴史はどうなのだろうか。仏教寺院での宗教教育は古くから行われていたはずだし、国家も中央に大学、地方には国学を設置し、さらに藤原氏のような有力な一族が子弟のための学校を作ったりもしていた。史料において初めて「学校」の名が冠されたのは関東にあった「足利学校」である。中世にはすでにあったというが、よくわからない。なお、空海は仏教教育を重視した学校を庶民にも門戸を開放して作ったが人が集まらないでうまくいかず、庶民の学ぼうという意識は高くなかったことがわかる。

江戸時代の学校

しかし、時代が近世、すなわち太平の江戸時代に移行すると二種類の学校が広く普及して、日本全体の教育レベルを著しく引き上げた。この時期の世界と比した識字率の高さはよく知られた事実である。どの学校でも教育の最初の一歩には「論語」があり、これを含む「四書五経」を学ぶことがベースにあった。
まず、武士のために作られた学校があった。幕府は小平坂に学問所を作り、旗本を中心にここで学ぶことができた。幕末期、西洋の学問が注目される中で旧態依然と批判されることも多かったが、果たした役割は大きかったはずだ。
さらに地方の藩も江戸時代中期以降に藩政改革をする中で優れた人材を育てようと、それぞれに学校を開いた。これがいわゆる藩校で、武芸・学問を学んだ。こちらは途中から庶民も受け入れたり、洋学も取り込んだりと、地方だからこその自由度もあったようだ。
洋学のような新しい学問を学んだ学者はしばしば私塾を開いた。そこで学んだものたちによって西洋医学が広まり、また幕末の激しい志士活動が行われるなど、日本史に与えた影響は大きい。
そして都市・農村の教育を担ったのが寺子屋だ。寺とはいうけど必ずしも寺院で開かれたわけではなく、教えたのも僧侶ではなく「手習の師匠」であった。このような教育機関が全国的に幅広くあったことは、先に紹介したような識字率の上昇に関与し、また「農閑期の暇な農民が高度な数学問題を解いて楽しむ」ような趣味の発生にも繋がったはずだ。
これらの多様な教育機関をベースにしつつ、しかし西洋の進んだ価値観を取り込むために制度を一新したのが、明治から始まった学校制度であった、というわけだ。

【執筆者紹介】榎本海月(えのもと・くらげ)
オタク系ライター、ライトノベル編集者。榎本事務所に所属して幅広く企画、編集、執筆活動に従事。共著として『絶対誰も読まないと思う小説を書いている人はネットノベルの世界で勇者になれる。ネット小説創作入門』などがある。
2019年に新刊『この一冊がプロへの道を開く!エンタメ小説の書き方』『物語づくりのための黄金パターン117』『物語づくりのための黄金パターン117 キャラクター編』(ES BOOKS)、『異世界ファンタジーの創作事典』『中世世界創作事典』『神話と伝説の創作事典』『日本神話と和風の創作事典』『ストーリー創作のためのアイデア・コンセプトアイデアの考え方』(秀和システム)を刊行。
2020年の新刊には『古代中国と中華風の創作事典』(秀和システム)がある。
PN暁知明として時代小説『隠密代官』(だいわ文庫)執筆。愛知県名古屋市の【専門学校日本マンガ芸術学院小説クリエイトコース】講師として長年創作指導の現場に関わっている。

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