2018年6月特別講義:「戦国時代に学ぶドラマチックなエピソード」

2018年度

本当かどうかはおいておいて

講義の初めに語られたのは「戦国武将にまつわるエピソードって、物語づくり・キャラ作りに役立つよ」ということでした。

私たちの知っている戦国武将の様々なエピソードには、実は江戸時代に創作されたり盛られたりした話が多く混ざっているのだそうです。
江戸時代の人々が、時に武士がプライドを守るために、時に軍略家や兵法家が自分たちの必要性を説くために華々しいエピソードやエンターテイメント的なお話をつくり上げていったとのこと。

今回の講義では、それが嘘か本当か、ということはさておいて、面白い、ネタになるようなお話が紹介されました。

〇川中島の戦い
長野県で起こった、武田信玄と上杉謙信の戦いが「川中島の戦い」です。
この川中島の戦い、一般に五回あったと言われています。
なかでも語り草になっているのが四回目の戦い。

武田信玄の拠点である海津城を攻略するため、妻女山に陣取った上杉謙信率いる上杉軍。
自分たちよりも高所に陣取られた武田軍は、軍司・山本勘助の策を選びました。挟み撃ちです。
それは別動隊が妻女山で上杉軍に襲いかかり、待ち伏せをする本陣のもとへと追いやって挟撃、という作戦でした。

さて当日。あたりには霧が立ちこめていました。
妻女山を襲おうとした別動隊は、しかし上杉謙信を見つけられませんでした。
実は上杉謙信は挟み撃ちを察知して、先んじて山を下り武田軍の本陣へ向かっていたのです。
本陣に乗りこみ、そこにいた武田信玄に向かって刀を振るう上杉謙信。武田信玄は、それを軍配で受け止めたといいます。
結局両者ともに生き残り、決着はつかず、痛み分けということで戦いは終わった――というのがこのお話です。本当かどうかは分かりません。

このお話に出てきた軍師・山本勘助は長い間架空の人物として扱われていました。
しかしどうやら山本勘助、という男はいたそうで。
また霧のために両軍がかち合ってしまって大きな犠牲が出た、ということも分かっているとのことです。

〇キャッチフレーズ
「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」
これは、織田家の四人の重臣につけられた、キャッチフレーズのようなものです。

「藤吉」というのは羽柴藤吉、豊臣秀吉のことです。
木綿というのは、当時とても便利なものでした(たとえば火縄銃の火縄も木綿でした)。
木綿藤吉、というのはつまり羽柴藤吉が木綿のように便利な男だった、という意味なんですね。

「五郎左」は丹羽長秀のことです。
米はこの時代の人たちにとって絶対に必要なものでした。とにかく米を食べて、ほとんどの栄養を米から得ていたような時代だったのです。
丹羽長秀は、織田家にとって絶対に必要な存在、ということなのです。

「柴田」は柴田勝家のことです。
「掛かれ」というのは「掛かれ柴田、攻めろー!」ということ。
攻めが強い、攻めさせたら負けない、
だから「掛かれ柴田」なんですね。

「佐久間」は佐久間盛政のこと。「退き」は撤退戦のこと。
佐久間盛政は退きの戦がうまかった、つまり犠牲を少なく退く、ということが得意だったので、こういう呼ばれ方になったそうです。

キャッチフレーズをつける、という方法は、キャラクターを立てる上でもかなり有効そうですね。
講義ではほかにも「瓶割柴田」の話や「立花道雪と雷切」のエピソードを聞くことができました。

〇龍造寺四天王
戦国時代、四天王というものがいろいろなところにいました。
徳川四天王、上杉四天王などなど。
当時実際に「四天王」を名乗ったりそう呼ばれたりしていたのか、それともそれらの呼称は江戸時代にでっちあげられたものなのか、ということはさておき。
その中に龍造寺四天王、と呼ばれた人たちがいます。

この龍造寺四天王、しばしばインターネット上でネタに、バカにされているそうです。
というのも彼ら、四天王なのに五人いるのです。
「五人揃って龍造寺四天王!」といった感じ。

しかしこれにはちゃんとした理由があります。
実は資料によって四天王とされている人が違うのです。

後世の人が雑に「四天王」にしてしまうと、こういうことが起きてしまうのですね。
それが歴史に残る、というのは恐ろしいことです。

話は変わりまして、龍造寺のドラマチックなお話も、講義の中では紹介されました。
戦国時代の九州は三強の時代で、その三勢力というのが、
「島津」「大友」「龍造寺」
だったそうです。

お話は龍造寺がまだ強くなる前、大友に攻められたところから始まります。
「今山の戦い」です。
この時の主君・龍造寺隆信がもうだめだ、となっていたところ、
彼の義理の兄弟・鍋島長茂が提案しました。
「夜襲を仕掛けるのだ」と。
やれるやれる、という長茂に対して、隆信とその家臣は消極的だったそうです。
そこへ割って入ったのは二人の母(※)。
追い詰められているのだから覚悟を決めなさい、と彼女は促しました。
それで覚悟を決めた二人は夜襲を仕掛け、見事大友の軍勢を退けたのです。

(※)「二人の母」について補足
この人は、夫(隆信の父親)の死後、長茂の父親のもとへ嫁ぎました。そのため隆信と長茂、二人の母なのです。
一説には、長茂の出来が良かったので、自分が父親に嫁入りすることで彼を龍造寺へ繋ぎとめようとした、といわれています。

ここまではいいお話なのですが、このお話には続きがありました。
この戦いの後勢力を伸ばしていった龍造寺ですが、大きくなった組織というものは古い仲間の間で亀裂が生まれたりするもの。
隆信が長茂を煙たがるようになったのです。
そうこうしている間に、隆信は島津との戦いで戦死してしまいました。
こうなると、主君を誰に継がせるのか、という問題が発生します。

結局長茂がその実権を握り、龍造寺家ではなく鍋島家として九州の領地を守っていったそうです。
もっとも長茂としてはそうなりたくてそうなったというわけではないようなので、彼からしたらたまったものではなかっただろう、と講師は締めくくりました。

歴史を掘り下げてみると、こんなにいろいろな事件があるのですね。
戦国時代にこんな面白いお話があって、その中には江戸時代の人たちが面白おかしく創作・アレンジしたものがあるのだ――ということは、それらは皆さんの創作にも役に立つはず。

という講師のお話でしたが、どうでしょう。「たしかに」と思った方もいらっしゃるのでは?

土曜セミナーは一般の方、卒業生の方、他コースの学生さん方のためにもなるように開かれていますので、興味のある方はぜひご参加ください。

※本レポートは、専門学校日本マンガ芸術学院における「土曜セミナー」の様子です。講義・演習は榎本秋のプロデュースのもと、講師:榎本海月が行ないました。

【執筆者紹介】榎本事務所(えのもとじむしょ)
作家事務所。大阪アミューズメントメディア専門学校、東放学園映画専門学校、愛知県の専門学校日本マンガ芸術学院、専門学校日本デザイナー芸術学院仙台校などの専門学校やカルチャースクールなどへの講師派遣、ハウトゥー本の制作を行い、小説の書き方やイラスト・マンガの描き方といった創作指導に力を入れている。

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